ゴールデンウイーク東北へ・番外編
Category : 未分類Date : 2013/05/04
昨年のG.W.に、被災地宮城へ出かけていました。そのことについて昨年の11月、ある会で話すことになり、出かけた気持ちや、見た事、感じた事、考えた事などご報告させていただいたのですが、その内容を、会の方が文字に起こして下さり、先日から僕も、読みやすい様に書き換えたりしてなんとか文章になりましたので、ここへも掲載します。
東北へは、このブログにも時々登場する友人、トミーさん家族と出かけています。文中の友人は、トミーです。それと、報告会では、同じ時期に福島県へ行かれた、コピーライターの白政桂子さんと二人で話しをしました。白政さんが先にお話されて、その後僕が喋っています。
会の主催は、関西YMSネット「毎月11日の会」です。詳細は、http://elevenmemorial.blogspot.jp
では。以下本文です。長いです。ではでは~。
それでは立嶋滋樹さんよろしくお願いいたします。
立嶋滋樹です。
よろしくお願い致します。
白政さんのように淡々と綺麗には話せないと思います。もうちょっと僕の想いとかが入るかと思います。被災された遠藤さんが聞かれたら、それは違うと思われる所もあると思いますが、その時は、遮ってくださって、色々とお話しをしてくださったら良いと思います。ご用意したプリントを見ていただきたいんですけれども、今回お話をさせてもらうことになりまして、(震災発生時から)振り返ってみて自分が思うところを(プリントでは)上から時間の軸にしました。大きくは先ず、「どうなっているのか分からない。」「どんな事が起こっているのか分からない。」「いろんな事が分からない!。」ということ。次に「(被災地へ)出かけた。」これは、震災から1年半経っているんですけれども。「やっぱりに見ておかないといけないかな。」と、思い立ったときです。それから、やはり「原発のこと。」そして、「これからどうしようか、どうするか。」と、いうことです。大きくはこの四つがキーワードです。(プリントの)上の方が震災当時、下に行くほど時間が経って、今考えている事という風になっています。順番通りには行かないかもしれませんが、この四つのポイントから話をしていきたいと思っています。
まず当日なんですが、アトリエで絵を描いていました。3月末からの個展を控えておりまして、制作をしていたんです。アトリエの椅子に深く腰かけてウトウトしていました。そしたらば、揺れたんです。結構長い時間揺れました。でも僕は三重県四日市市の出身で、東海地方というのは割合頻繁に地震が起こる所なんです。子供の頃から、忘れた頃には地震が起こるっていうくらいの感覚はあって、当日の大阪の揺れくらいでは何も思わなかったんです。揺れてるなぁ、ちょっと長いなぁ、と、思った位です。揺れがやんだらラジオをつけて、そのまま制作をしていました。その時は、そんなたいした事無いなって感じだったんですね。でも、実はそうじゃなかったということです。
その後、夕方までずっとラジオをかけて、アトリエで制作を続けていました。そのラジオが、確かこういう言い方だったと思うんですけれども、女性の声で淡々と言ったんです。「福島第一原発が電力を失って、冷却不能な状態になっています。」 そのニュースを聞いた時にちょっとエッ?と、思ったんですね。原発で事故が起こっているという事態への驚きもありましたが、「それで?その後はどうなっているの?」、「なぜニュースをそこで切るの?」って、そう思ったんです。反射的にそう思いました。「冷却ができないと伝えておいて、何を言おうとしているの? なぜその先を聞かせてくれないの?」そう感じたんです。一般人の知識でも、原発の冷却が出来なくなるという事の意味って、分かりますよね。だから、ニュースとしては、「冷却不能になって、メルトダウンの可能性がある。」とか、「まだメルトダウンは確認されていない。」とか、「こういう対応を試みている。」という情報を続けてくれると思ったのですが、ニュースはそこで終る。 このラジオの第一報の、ニュースとしては完璧な形ではない、尻切れトンボの様なニュースだ、という印象が後々、国の対応とか、マスコミの対応とかを見聞きする中で繰り返されて僕の中に積もっていく。なぜそこから先を言わないのかということ。それがずっと繰り返されて、僕の気持ちが悶々としていったんですね。 ニュースを聞いても何が起こっているかわからない。もちろん被害が甚大でしたから状況を把握することが容易なことではなかったとは思いますし、ニュースとして流せる事は、確認が取れていることだけだというのは分かりますけど。それを踏まえても何か釈然としない気持ちがありましたね。自分が集められるニュース、簡単に手に入るニュースでは、「普通に考えると、それって、こうなるんじゃないのか?」と、いうようなことが全部尻切れトンボになっているんです。僕は、家にテレビは持っていなくて、もともとあまり見ないんですけれども。この時は更に、情報源をすべてポッドキャスト、ネットのラジオに切り換えました。自分で探さないと駄目だと。また、アメリカに大学の同級生が住んでいるんですけれども,震災発生の次の晩には、「日本はどうなんだ?大丈夫なんか?アメリカはもうメルトダウンが起こったという前提で対応に動いているよ。」ということも言ってきていました。だからなんだか、故意に尻切れトンボにしているんじゃないかと、そういう気持ちも持ちました。ただ震災直後2、3日の僕は、津波の映像が余りにもショッキングだったので、アメリカの友達が送ってきた事故の状況についてのいろいろな質問に対して、「今は、津波って、こんなことになるんやって、呆然としている。」という返事しか返せなかったのを覚えています。
津波の映像、特に陸前高田の映像は辛かったです。僕の母の故郷である三重県熊野市新鹿町という小さな町が、陸前高田の地形とそっくりなんです。高田よりももっと小さな町ですが、そこには綺麗な浜があって,子供の頃よく遊びました。浜で遊ぶ時は母親に「津波が来たらあの丘まで全速力で走るのよ。知らないおじさんでも、誰かが、津波やで!って言ったら全速力で走るのよ。」そう教えられて浜で泳いだりしていたんです。こういう津波に対する意識というのは、海で育つ、住んでいる人にとっては当たり前のことだと思うんですが,しかし、それが本当に起こったら、こんなことになるのか、こういう言い方は良くないかもしれませんが、当時子供の頃から、ボヤボヤしている人が、波にのまれるんだろうなぁ、くらいに思っていたんです。けれど、町ごと取られていくあの映像は非常に辛かったです。
皆さんも一度は思われたことと思いますが、僕も、現地に行こうか、ボランティアは出来るか、というような気持ちは湧きました。しかし、何しろ自分の個展がありますので、それを投げ出して行くということもできなかったし、かといって、このまま絵を描いていて意味があるんだろうか、なんの役に立つんだろうか、という気持ちもありました。絵を描いているからということでもないんでしょうが、自分が生まれて住んできた地域の文化というものが、表現する者の価値の根底にあるという気がするんです。例えば、日本は災害と共に生きてきたと言ってもいい歴史があり、それを復興し続けてきたことで今日があるわけです。危機に陥った際の、人と人のやりとりとか、リーダーシップなり、判断とか、事態を乗り越えられる観察眼というんでしょうか、広い意味での感性です。それが非常にすぐれているんだ、とか、そういうものが自負心としてあって、それをを肯定したいから絵を描いているわけです。描いていたら多分自然にそうなるんだと思うんです。それが今回、国の対応などをニュースで聞いていると、何をやっているんだ?どうなっている?こんなことをしていていいのか?と、心に脂が溜まっていく。結果、肯定できるものなんか無いじゃないか、という気持ちになってきて作品が描けなかったということを覚えています。最近少し復活してきていますが、長いこと絵は描けませんでした。その年は、10月にも大きな展覧会がありまして、ずっと悶々として絵を描いていましたら、初めて真っ黒い絵を描いていました。そんなこともありました。
自分で何も出来ないことは分かっているんですけれども、東北の人は、被災した人は、どんな状況から復活してこなければならないのか、頑張らないといけないのかを見ておかないと。ニュースを聞いたり、見ているだけではどうしようもないな、という気持ちがどんどん膨らんできました。ただ、行っても何の役にも立たないし、邪魔だろうという気持ちが大きくありました。僕と白政さんが被災地へ行った時期が重なっているというあたり、1年半経って、テレビなどで「来て貰っていいですよ。」とか、「是非来てください。」とか、そういう被災地の方の映像が流れ出した頃なんじゃないかなと思うんですね。それまでは、写真を撮られるのが嫌だとか、そういう意見もテレビで流れていたと思います。何かをしたい気持ちはあるけれど、見て帰ることしかできないと思っている人間が、そろそろ行ってもいいだろうかと考える様になったのが、この1年半後という時期だったんだと思います。その頃、一緒にテレビを見ていた人が現地の映像を目にしながら「まぁ、やっぱり同じ国に住んでいるんだから、お見舞いぐらいは行かないといけないかな。」と、言われたんで、ああそうか、お見舞いね、そんな重々しい感じではなくて、それでいいよね、みたいに思って、じゃぁ行こう。と、ちょっと踏ん切りがつきました。お見舞いという言葉が良かったのかなと思っています。
東京より東に行ったことのない僕には、東北はそんなに近い場所ではないです、現地には知人も全くありませんでしたので、とりあえず現地の情報を集めました。電車、バスなどでどのくらい行動できるのか等も分からなかったですし。5月の3.4.5.6日の予定で宿を確保しようとしましたが、その頃は、ボランティアの方が、まだまだいっぱいで、ホテルもボランティアの方限定という条件があったりして、取る事が出来ませんでした。一泊7万円というところはありましたが、いくらなんでもね。ネットで空室状況を確認したら、1件だけ「不明」という宿があったんですね。それが、鳴子温泉の湯治場だったんです。その情報を確認している時点で、出発の前前日です。一緒に行ってくれた友達の話を少ししようかと思うのですが、僕が1人で行くにも往復のレンタカーを運転する自信もなかったので、いつも困った時には助けてくれる友達家族を思い出してメールを送りました。「ゴールデンウィークに被災地へ行こうと思うんですが、一緒に行きませんか。」と。返事は速攻で「じゃ、一緒に行きましょう。」と返ってきました。あれ?子供たちは連れて行くんだろうか、と思いましたが、今までのつき合いから、彼一人だけが行くことはないだろう、行くということは、当然子供連にも見せるつもりだろうと。これは、尚の事子供がいるので宿の問題とかいい加減に考えられないなあと思いました。彼のところは、小学校5年生と3年生の娘さんが2人です。それから再び、じゃあレンタカーと宿を探してみましょう、と動き出しました。レンタカーもその時は空車が見つからない状態で、次の朝一番で電話をかけてみよう、レンタカーと宿、どちらかが取れたら行こうと決めました。幸い電話でどちらも取る事が出来ました。最悪、車の中で寝るということも考えてレンタカーも一番大きなハイエースを借りていきました。宿は3日間。宿の方は、わりと気楽な感じで電話対応していただきました。その温泉は早くから通常営業されていたようでした。
僕らの行程は、北陸道を北上して、新潟から東へ、新幹線を使って合流する友達を仙台で拾い鳴子へ。通過した仙台市内は、ネットラジオで聞いていた通り、夜も明るくて賑っている状態でした。鳴子の温泉宿から1日1日、出かけては帰ってきて、出かけては帰ってきてを繰り返し、被災地を回りました。僕は「お見舞い」にカメラは持っていかないだろうと考えていたので、カメラは持って行きませんでした。一緒に行った彼は、カメラを持って行って写真を撮ってくれました。被災の状況はテレビ等で皆さんよくご存知でしょう。海辺の環境を知っている方は、少しわかるところがあると思いますが、なる時にはこういうふうになってしまうんだろうな。と、冷たいかもしれませんが僕はそういうふうな割切りで景色を見ていました。ひどいなあとは思ったんですが魚が取れれば人は戻ってくるだろう、というようなちょっと楽観的なところもありまして、ああ、この規模なんだなと、酷さには驚きましたが自分では割合淡々と確認のつもりで回っていました。
宿で仲間の一人が、石巻で漁師をしておられたという人と会って、震災直後のことを話してもらいました。その方は、船が流されてしまったので暫くこちらへ来て休んでいるということでした。僕らが行った時には、瓦礫はもうきちんと整頓されていましたけど、もちろん震災直後は、辺り一面ぐちゃぐちゃになっているので、まず道を作ることから始めたそうです。道を作るには、そこで土地感を持っている人間が必要なので、現地の男衆と自衛隊が協力して作業をしたそうです。その時は遺体が出てきても運ぶ道がないので、そのまま傍らに置いておいたそうです。とにかく最優先で道を作り、道を作って運び出すことができるようになったら、その後の作業を捜索活動とするそうです。そこで自衛隊の方が「ここからは自衛隊がやりますので、もう手伝っていただかなくて結構です。」といって、遺体を全て学校内に運んで火葬して貰ったということでした。「だから、自衛隊には頭が上がらんなあ。」とおっしゃっていたそうです。また「あの時には時間がなかったので、車の中まではなぁ、見とらんのやわ。急いで積み重ねていったから、中に人がいてはるかもしれん。」そんなふうに言っておられました。「地元の者も、あそこはいろんなことがあったんで、よう戻らんと言っている人もいる。お前ら良く行ってきたなぁ。」とも。そんなお話を聞いたりしました。
被災地へ行ってみて、何か自分の中で変わったのか、という事ですが、ニュースを見るにしても、何かしゃべるにしても、自分の中でイメージを持つことができます。テレビのニュースで、その背景に映っている風景を見ても、スケール感が頭に湧くので、行かないで聞いていた時より、ぐっと集中できます。また一度行っているということで、また何かあれば行けるという自信が付いているということも大きな違いだと思います。これはやはり、人が沢山入って、現場の人も大変だと思うんですが、それを受け入れて、感覚を共有しながらテレビを見るとか、考える、それを自分の体験、感触として持つことが、これから話し合っていく中で必要ではないかと思ったりします。その点が良かったと思います。
風評という問題はよく言われるんですが、僕はちょっとおかしいなと思っていまして、国は放射能のレベルについて、幾つが安全でそれ以上は安全じゃない、また、簡単には言いきれない。そういう言い方をしますが、それは逆で、放射能のレベルが、幾つだと安全で、幾らだと安全じゃないのか、それは僕らが考えることであって、国がするべき仕事は、この場所は幾つだという正確な情報をくれるのが仕事なんじゃないかと思うんです。これが逆転している。風評というものは、実害がはっきりしないので、風評が起こるんだろ。と僕は思うんですね。出て来る数字に信頼がないからだと思うんです。数字に信頼性がないというのは、風評が生まれて当然だと思うんです。何かこの「風評」ということには、摺り替えが行われていると思えてならないんですね。風評がどうのこうのと言っていることの方が都合が良いのではないかと。余りにも線量が高いということよりは、風評が起こっている状況の方が都合が良いんではないか。そういう苛立ちというのが凄くあって、なんでこんなことが起こるんだという。我々のリーダーは一体何をしたいのかと、そういう苛立ちがずっとありますね。瓦れきは今、宮城県内で処理可能と言われていますね。だけど有名広告代理店は高いお金を貰って新聞に広告を出したりする、みんなで瓦れきの処理をしようと。だけど東京の一般市民が瓦礫を処理するわけではないので、その広告には意味がないんですね。また、補助金と、被災地の瓦礫を処理するという名目を使って、この時とばかりにゴミ処理場を建設している自治体があったり、なんでそんな感じの悪いことを平気でするのか、なぜそれが宮城県で出来ない、そんな簡単なことがどうしてできない。いろいろ僕が知らない問題があるんでしょうが、そういう苛立ちが凄くあって、なぜこうなってしまうのかということを、これから考えないといけないのではないかと。
我々の様に関西で生活している人間が、同じ国で災害によって困難な生活に陥っている人に何ができるのか。被災した方々が自分で立ち直るというのが大前提ではあるけれども、何も関西では災害が起こらないということではないので、どこに住んでいても日本では災害というものに見舞われるだろうし、人ごとでもない。でもそこから生き延びていくということはずっとやってきたわけで、だから、それを「妨げる」ような判断等ですね、それをチェックする。普通に頑張ってやろうとしている事、そういうことを妨げるような考え方とか、方法とかですね、そういうものを指摘するというのが、外に居る我々だからこそできるのではないかなと思います。当事者の方は、やはり利害というのが直接的なので、判断が難しい事態も起こるのではないかと。それはおかしいでしょみたいなことをジャッジするとか、声を上げるとか、そういうことは逆に離れているからこそ、出来るんではないかというようなイメージが僕にはあります。
戦後は終わって震災後、という言葉が時々いわれたりしますけれども。やはり震災以後ものすごく変わったなと感じます。原発の話でも、続けるか続けないかではなく、果たして続けるとか、続けないとかの「選択ができる」国なのか?って思います。そういう事を考える様になった。原発反対というけれど、実は言葉に過ぎず、実際には原発と決別する体力はなんじゃないかな、日本には。それを選べる、「選択が出来る」国造りを目指さないといけない気がする。それを実際に具現化できるリーダーを探していきたい。 これは話が広がりすぎるかもしれませんが、日本は、バブル崩壊の時に銀行を助けましたね。助けるのは、良いとしても、責任を取らせることをしなかった。そこから責任をとらなくてもいい世の中が始まったと思うんです。社会保険庁の件も然り。少なくともこれまでは、責任を持つという役割がリーダーにはあったわけです。それが今は無くなっていて、それでもまだ平気でその人達は発言を続けているという感じですよね。その程度の理念なのに、一部の閉じた業界に対して経済的な収支さえ合っていれば、話として通ってしまう。それを、今に至ってまだやるのかっていう感じです。
あと、絵を描いている立場からですと、アートで復興をするという作家も沢山いますが、僕は、これには否定的で参加する気は起こらない。聞いた話なので、詳しくは知らないのですが、一つだけ良い話だなと思ったことがあります。村で神楽を舞う舞台が壊れたので、文化に関わる者として、そういう物を直しに行こう、ということで出かけて行った。直ったら、そこに人が集まって神楽が復活して喜ばれたと。その話ぐらいかな。アートで何か復興という考えに対して、僕は、芸術にはそんな力はないというのが正直な思いですね。もっと個人的なものだと捉えています。
最後は急いでグダグダになりましたが、プリントの「振り返ってみて」というところを読んでまとめたいと思います。今回振り返ってみて、遠い昔のような気がしていますが、まだ1年と8ヶ月くらいです。これからの長い復興の時間を思うと、まだ起こったばかりじゃないかと思いました。まだまだこれからみんなで話し合って、ああじゃない、こうじゃないと言い合わないといけないと思うのに、もうテレビからは3月11日だけに情報が流れるというような傾向になりつつありますので、ちょっと危機感があります。今でも、これどういうこと?思う感覚があります。震災直後、情報が尻切れトンボだった時の、あの感覚を何度も思い出します。まだこれから、地震発生当時、何処の機関がどういうふうな判断をしていたかとか、活動をしていたかということをもう一度専門家の人に詳しく見てもらうと、欠陥というか、これから作っていかないといけないというところはいっぱい出てくるんではないかなと。基礎研究的なものかもしれないですね、そういうことも必要だと思います。
先日、NHKで福島原発の廃炉に向けての番組をやっていました。40年という計画が言われていますけれども、40年間、何を作るわけでもない作業をする。こんな恐ろしい事はないと、僕は思ったんです。僕からすると、僕のつまらない作品でも出来上がるとホッとするんですよね、救われた感じになるんですよ。だから、40年間かけて何も出来上がらないこの作業をやる人は、当然いないと僕は思います。作業員を確保できないという話でしたから。人間ってそういうものじゃないかと思うんです。例えお金が得られる仕事だとしても、それだけの為に動けるものじゃない。今はなんていうか、経済効率とか、経済の回転が止まらない為に答えを出さないといけない、そういう判断が、どんどん正しい事の様に下されいる様な気がするんですね。それって誰がいつ決めたんですか?少なくとも僕はまだ手を挙げていませんって思います。事故とはいえ、こんな不毛な作業が待っているのに、まだ原発しないといけないのですか? 国の判断だからするのだったらするで良いのですよ。ただ、こういうものと引き換える値打ちが何に対してどれくらいあるのか。これとこれは引き換えられる、これとこれは引き換えられない、ということをちょっと整理しないといけないのではないかなと思いました。
以上です。
参加者「立嶋さん、子ども達の反応は。」
立嶋「大人しく見ていましたね。はしゃぐでもなく、淡々と見ていました。空気は感じていた。ただ見た事のない風景ですから。小学校で、タンカーがぶつかって燃えている学校がありましたね。石巻だったか。それは「怖い」って言ってましたね。」
参加者「お友達は何をされている方ですか。」
立嶋「お二人共、作業療法士です。」