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戻ってきました。暑いです。今日は午後から学校へでかけ、学生さんの添削してました。んー、で、唐突なんですが、作詞家の阿久悠さんが亡くなられましたね。僕は、ああいう風狂な雰囲気の人が好きなので残念です。(僕のカラオケレパートリーは、阿久悠作詞になるものとブルーハーツです。)広告代理店時代の若いころを書いた自伝小説なども読みましたし、「瀬戸内少年野球団」なんてのも映画になりましたね。しかし、なんといってもやはり作詞活動のものすごさからすると、僕の中では小説のお仕事は意識から追いやられてしまいます。今、手元に1997年初版の「書き下ろし歌謡曲」という理解不能の本があります。(多分)依頼を受けて制作したのではない歌詞が100編と、それを書いていた日々のことだけが書かれた本です。ちょっとご想像くださいな、仮に沢田研二の名曲「時の過ぎゆくままに」であっても、曲もなく、ラジオで聞く訳でもなく、(いずれ誰かに歌われて、ヒットするにしても)ただ未知の歌詞として100編の他の歌詞中に羅列されていたら、、、全くもって、読む気にはなりません。そういう本が、岩波から出てるんですから、ちょとそこのアナタ、すごいでしょっ、それだけで。

いや、そんなことが言いたい訳ではありません。また明日、つづきを書きます。おやすみなさいませ。

さて昨日のつづき。書き下ろし歌謡曲の100編は一ヶ月で書かれたと書いてありました。それはそれで驚かないわけではないのですが、アイデアが沢山浮かんでくること自体よりも、それをひとつひとつ仕上げていくときに、ぶれの無さというか、ある方向性を見失なわないことにすごさを感じます。たとえば、アイデアが浮かぶかどうかっていう話では、ロバートBパーカー氏なんかは「長年やっているので、アイデアが浮かんでくるのは分かっている。」とか、手塚治虫氏も5分でいい、とか言っていて(こんな方々の様に、右から左を向く間にとはいかないのでしょうが、、)よくドラマとか、漫画なんかに昔描かれてたアイデアが枯渇した大御所作家なんてのは作り話の類だと思っています。でもしかし、実際はアイデアから作品完成までには、いくつもいくつもこっちかあっちかの判断を繰り返していくわけです。その完成までの密林のなかで、制作者が持っているコンパスがその作家の質なんだと思うのです。そのコンパスが確固たる性能を持っていればこそ月産100編の作詞をしてもぶれたりしない。(すごい体力ですけど、、)そのコンパスの性能の秘密を知る人がいなくなってしまったのがさびしいのです。

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