安黒 正流氏 Masaru Aguro(1937−)
雑誌「展評」創刊号99年9月

1999年7月6日~11日
ギャラリー・ココ個展

「静かなゆらぎの快感」

画面がゆらいでいる。微かで、ゆったりとして、デリケートな、ゆらぎである。性急であったり、過激であったりはしない。視覚を楽しませ、くつろがせ、見ることの喜びをもたらせてくれる、ゆらぎである。その、ゆらぎを、ゆったりと追っていくとき、日頃は、現代生活を生きるための、過剰な情報を取捨選択して取りこむことに駆使されている視覚が、純粋に見ることの快楽を取り戻す。明晰な絵画だといえるだろう。余分な情景やイメージや構成は排除されている。視覚が、ゆらぎに集中し、ゆらぎに吸いこまれるように、細心に準備されている。余分な要素が、視覚を引き裂いて視覚の集中を乱すことがない。画面は、視覚が、静かにゆらぎに陶酔できるような、簡素で静謐な環境をつくっている。この4、5年、コップをモチーフにしている。モチーフという言葉は当たらないのかも知れない。作者自身は「コップのシンプルな形態を絵画空間への入り口にもちいています」と、コメントしている。それ以前、立嶋は、抽象形態で絵画空間をつくっていた。しかし、抽象図形はイメージを呼び起し、意味を考えさせ、空間を複雑にする。より、端的に率直に、絵画空間のゆらぎに視覚を集中させるための形として、コップが採用された。簡略な線で描出されたコップは、ただのコップとして見る者の意識に収まって、視覚や知覚に、余分な負担をかけない。眼は動きに魅かれる。現実空間の中でも、動きは、眼を楽しませる。平面上の抽象化された世界である絵画でも、動勢は、作品を成り立たせる重要な要素である。実際の動きと、画面上の動きと。両者の魅力の質の違いを説明することは、わたしの能力に余る。しかし、絵画空間の動きには、現実の動きを超えたすばらしさがあると思う。純化された動きに視線を誘う、立嶋の作品は、そうした絵画空間の豊かさが健在であることを、改めて、信じさせてくれるものだった。立嶋が最も美しいと思った絵は、デュシャンの「階段を下りる裸婦」だそうだ。
尾崎信一郎氏は、1990年に、まだ大阪芸術大学に在学中だった立嶋の、第2回の個展を、早くも、美術手帳誌の展評でとりあげている。フォーマリズム絵画の90年代の展開の予感を、立嶋の個展に読み取る趣旨の展評だった。なかで、尾崎氏は、立嶋のマティエールつくりの巧みさに注目していた。今回の作品も、マティエールは美しい。しかし、多分、90年にそうであったろうようには、今は、マティエールはめだたない。マティエール、色彩、形態、そして空間が滑らかに溶け合い、負荷なく交流する、統一体としての絵画作品となっている。そこに、90年代に青春を過ごした立嶋の、順調な成長を見ることができるだろう。

 

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