強い完成のイメージが、作品の完成を歪ませる。

こういうこと、案外起こりやすく、作り手の誰しもが注意を払い、苦心するのではないかと思う。強い完成のイメージは、言い換えれば「あこがれ」だろうか。「カタチ」に酔う、とか。そこに、焦りも加わって、いるかも。制作中の、作品とのやりとりを無にして、その首を挿げ替えてしまう。また、その反対に、山頂手前で下山。あ”ー、もったいない。でも、稀なことではない。

「映像が美しいのはコダックの力で、人物が面白いのは俳優の力。 私の力じゃない。・・・」などと、ゴダール監督。セザンヌ画伯は、両の手の指を組みながら、「こういう具合にモチフを捕らえる。こうならなくてはいけない・・・それが多くのものにはできない。」と。方や、なげやりなジョーク、一方は、フレンチな禅語のようであるけれど、僕にはこういう勝利宣言に聞こえる。「私は何もしていない。憧れる事も、酔う事も、ただ私がするべきことをやりきった。」

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